国際政治・アメリカ研究

    ■トピックス――国際事情・アメリカ事情  
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目 次

《2013年7月》
(追悼)J・J・ケイルの死去

《2013年5月》
富士山――世界文化遺産登録へ(平林裕美)

《2013年1月》
(備忘録)メトロポリタン美術館展――ゴッホの「糸杉」を見て





《2013年7月》

(追悼)J・J・ケイルの死去

 26 日、アメリカ人のギタリスト、シンガー・ソング・ライターのJ・J・ケイルが心臓発作のため死去した。一般的な知名度は高くないものの、プロの間で一目置 かれるMusician's Musicianであり、エリック・クラプトンをはじめ、多くのアーティストに影響を与えた伝説的な存在である。晩年、エリック・クラプトンと の共作『ザ・ロード・トゥ・エスコンディード』でグラミー賞(2006年最優秀コンテンポラリー・ブルース・アルバム)を受 賞して日の目を見たが、実はそれはエリック・クラプトンにとって名誉なことだったのではないか。J・J・ケイルはぼ そぼそと歌い、ギターの旋律はどちらかといえば平坦で抑揚がない。しかし、よく聞くと唯一無二のスタイルとして完成されており、いぶし銀のような魅力に溢 れている。ニール・ヤングは「ジミ・ヘンドリックスとJ・J・ケイルこそ最高のエレキギターの演奏者だ」と述べたそうだが、私の評価もそれに近い。

  突然の訃報に触れ、彼がすでに74歳という高齢だったことに驚いた。もちろん、今時の70歳代の中にはまだまだ元気な方が多いが、そういう意味ではなく、 60年代ロックの草分けであるビートルズやローリングストーンズのメンバーよりも年齢が上だからである。J・J・ケイルは50年代にもシングル曲をレコー ディングしたことがあるようだが、世間に認められるようになったのは、71年のシングル「Crazy Mama」、72年の初アルバム『Naturally』からである。そのときすでに彼は32、33歳に達していた。『Naturally』は若い頃から私 が最も好きなアルバムの一つであり、その内容はすでに円熟の域に達していた。 

 1992年にフジテレビが深夜に『アメリカン・ギターズ』という 番組を何回か放送したが、「フェンダー」の特集を見ていると、J・J・ケイルがソファーに座って名器ストラトキャスターの解説をはじめ、おもむろに 「After Midnight」を弾き語り始めた。それは実に渋い、素晴らしい演奏だった。ぜ ひ一度生で演奏を聴いてみたい本物のミュージシャンであった。(2013/9/5)
 


《2013年5月》

富士山――世界文化遺産登録へ(平林裕美)

  日本最高峰「富士山」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されることになる。5月1日、世界遺産委員会の諮問機関(イコモス)が「富 士山」の世界文化遺産への登録を勧告したことが、文化庁の発表により明らかになった。ただし、その勧告では、景勝地として知られる三保松原の除外や今後の 保全状況の報告書の提出(2016年まで)が登録の条件とされた。

 かつて「富士山」は自然遺産での登録を目指していたが、世界遺産委員 会が定めた評価基準に自然遺産として適合することができなかった。そのため、日本政府は、「富士山」が古くから信仰の対象であったことや、葛飾北斎の浮世 絵など日本の芸術文化の象徴的存在であることに着目して、文化遺産での登録を目指す政策に切り替え、去年1月ユネスコに推薦書を提出していた。今回、イコ モスが世界遺産への登録を勧告した理由としては、「富士山」は「日本の国家的象徴だが、その影響は日本をはるかに越えて及んでいる」ことや、「富士山信仰 という山岳に対する日本固有の文化的な伝統を表している」ことなどが挙げられている。

 イコモスの勧告を受けて、「富士山」は6月16日 にカンボジアで行われる世界遺産委員会で世界文化遺産として登録される見通しである。日本の象徴と言っても過言ではない「富士山」の世界文化遺産への登録 は、多くの日本人にとって喜ばしい出来事であろう。ただし、それと同時に、世界遺産に登録されれば、景観や環境の保全が義務づけられる。観光客の増加が見 込まれる中で世界遺産にふさわしい環境を保存していくために、観光客の人数をどう管理し、「富士山」周辺の開発をどうコントロールすべきか、政府、自治体 の取り組みが改めて問われることになる。(2013/5/11)

(参考資料)『朝日新聞』(2013年5月1日);「世界遺産登録へ 明暗の訳は?」『NHK News Web』(2013年5月6日)
 


《2013年1月》

(備忘録)メトロポリタン美術館展――ゴッホの「糸杉」を見て

  メトロポリタン美術館展の最終日に間に合わせるため、新年早々、東京都美術館に足を運んだ。目当ては日本初公開となるゴッホの「糸杉」。1889年、サ ン・レミの精神療養院「サン・ポール」に入院していた頃の作品であるが、画集で見る絵とはあまりにも異なる迫力に心を打たれた。帰り際に土産コーナーで売 られていた複製画も見たが、コンピュータで写し取っても、それはまったく無価値なものとしか思えない。つくづく思ったのは、工業製品がいかにくだらないか、そして、本物の手仕事のすばらしさである。本物に描かれていたのは、渦巻く不安と悩みを抱えた まま、しかし青い空に向かってどこまでも高く進もうとするゴッホ自身の姿であり、そのエネルギーは凄まじく、画家の息づかいが感じられる作品であった。思って いたよりも大きな絵で、全体を見るには少し離れた方がよいが、近づいて細部を見ると厚塗りの絵の具が立体的に浮かび上がっているのがよくわかる。

  この頃、弟のテオはゴッホに次のような手紙を書き送ったという。「君の最近の絵には、従来になかった色彩の激しさがある。しかし、兄さん。これはやりすぎ だ。このために、どれほど君は頭脳を労したことだろう。どれほどいっさいの危険を冒したことだろう」。ゴッホの病状は改善しつつあったが、まもなく発作が 再発し、彼自身もはや恐ろしい病魔から逃れられないことを悟った。そして、翌年ゴッホは帰らぬ人となったのである。この作品には、才能に恵まれながら世間 の評価を得られなかった天才が、倒れる寸前まで希望を捨てずに努力を重ねていた、悲しくも美しい人生の瞬間が描かれていたのではないかと思う。 (2013/1/8)

(参考資料)テレビ東京『美の巨人たち』<http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/121020/index.html>




 



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