国際政治・アメリカ研究

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目 次

《2011年4月》
反原発の常識・非常識――福島原発の事故から一カ月
(備忘録)恩師のお墓参りを終えて




《2011年4月》


反原発・脱原発の常識・非常識――福島原発の事故から一カ月

 3 月11日の東日本大震災後1カ月を経て、今日、福島第一原発の事故がチェルノブイリ原発事故と並び、原発事故の深刻度を示す「国際評価尺度(INES)」 で最悪となる「レベル7」の認定を受けた。正直なところ、最近の私にとっては、それよりも何よりも1月に恩師が逝去されたことの喪失感が大きかったが、お 墓参りを終えて落ち着いたこともあり、原発事故について感じたことを書きとどめておくことにしたい。今回、私が問いたいのは、「反原発・脱原発は非常識 か」ということである。

 私個人の印象では、1979年のスリーマイル島原発事故、1986年のチェルノブイリ原発事故にもかかわらず、 これまで日本における反原発は、少なくとも地元に原発が誘致された場合を除けば、一部の極端な左翼のヒステリックな態度くらいにしか思われてこなかった。 スリーマイル島原発事故が発生したとき、私はまだ中学生であったが、日本ではたいした話題にならなかったと記憶している。その後、私は大学生としてチェル ノブイリ原発事故の報道に触れ、日本にも死の灰が降ったことを伝えられたが、私の周囲には反原発の活動に励む学生は一人もいなかった。

  たしかに、チェルノブイリ原発事故後、広瀬隆氏の著書『東京に原発を!』が話題となり、日本でも短い期間だが原発に否定的な感情が高まりを見せた。しか し、チェルノブイリ原発事故を機に、多くの人々は原発の安全性に不安を感じるようになったものの、人前で原発の廃絶を唱えたのはごく一握りでしかなかった はずである。バブルの真っ只中でも、社会の問題に関心を寄せる学生や市民がいなかったわけではない。しかし、原発の安全性については、一般の市民や学生が 政府の動きを監視しなければならない政治問題とは見られず、むしろ経済・社会の発展のために一部の専門的な技術者が努力して解決すべき問題であると見られ る傾向があった。

 その後、1990年代においても、原発を許容することはほとんど社会の常識だったといえる。

 進歩的な市民の中には、原発の安全性には最大限の注意を払うべき だと感じていたにせよ、原発の廃絶を唱えて非現実的な極左のレッテルを貼られることを嫌う人々が少なからずいた。21世紀に入り、地球温暖化問題へ の関心が高まったことは、そのような人々にとって、原発を許容することのエクスキューズとして役だったはずである。市民の関心は火力発電が地球温暖化に与 える悪影響へとシフトし、原子力発電の安全性への不安は払拭されないながらも原発の存在を許容する態度がさらに広まったのである。

 その ような国民の心理は、内閣府の「原子力に関する特別世論調査」(2009年)(1)に如実に表れている。その世論調査よれば、過半数(53.9%)が原発 の安全性に「不安」を感じていたにもかかわらず、原発を「早急に廃止していく」べきと答えたのはわずか1.6%にすぎなかった。原発の推進は、積極的に推 進(9.7%)と慎重に推進(49.8%)をあわせて59.6%を占めており、現状維持が18.8%、将来的に廃止(14.6%)と早急に廃止 (1.6%)をあわせても16.2%にすぎなかったのである。

 ある意見が1.6%の人々にしか支持されないとなると、それは社会的に 「非常識」といわれても仕方がない水準だろう。しかし、なぜ、過半数の人が安全性の問題で不安を抱えるものを早急に廃止していくべきと考えることが社会の 非常識となってしまうのか。それは基本的には背に腹はかえられないという発想があるためであろうが、福島第一原発の事故を経験した今となっては、それは 「疑似確率論的希望的観測」と「想像力の欠如」がなせる業であったとも考えられる。

 原子力の安全性については、「事故発生頻度を考える と、原子力発電所の安全性は自動車事故よりも一万倍以上安全である」(2)などといわれる。しかし、原子力発電は歴史が浅く、発電所の数も自動車の数ほど 多くないので、これまで日本では事業所外へリスクを伴う事故が一度も起きていないというような経験から将来にわたる安全を信じるのは、結果的には希望的観 測にすぎなかったといえる。核兵器について、抑止の有効性はあると思われていても実際には破られたときにしか証明されないという指摘があるが、今となって は、原発の安全性は、実際には事故が起こるまで証明されていなかったといわざるをえないのである。

 もう一つの問題は、想像力の欠如にか かわる。たとえば、自動車事故と原発事故を比較する際、自動車事故で毎年5000人前後が死亡しているという統計がある。われわれは、この数字を事実上許 容しながら自動車社会で暮らしている。そして、原発推進派の研究者に原発事故による年間死亡者数がほとんど0に近いというデータを引き合いに出され、文明 社会では原発が当然に許容されるべきという説得が行われるわけだが、一人一人の市民が本当に真剣に考えてみる必要があったのは、5000人の死につながり かねない原発事故が一度でも起きた場合にわれわれはそれを自動車事故の場合と同レベルで許容できるかという仮定の問題であった。確率的にどの程度であるか はともかく、理論上、それが起こりうることをわれわれは知っていたはずだからである。しかし、悲しいかな人間の想像力は、原発をつくることのできる創造力 ほど豊かでない。もちろん、それだけの原発事故が起これば、同じ5000人の犠牲という数字だけでは表せない、圧倒的な社会的反響があったはずである。そ れは、たとえば東京大空襲による死者数が広島への原爆投下と長崎への原爆投下の中間であっても、反核の感情と反焼夷弾の感情が同じ次元で話せないことに似 ているかもしれない。しかし、平和な生活の中で、そのような危機的状況をリアルに想像したり、比較したりできる人は少ない。しかも、そのリスクは自動車事 故の1万分の1以下であると説明されていたのである。

 ここで最初の問いに戻るが、反原発・脱原発は非常識か。福島原発の事故は、それを 少なくとも無視できない一つの立場に押し上げたはずである。いまや反原発は「非常識」の一言では片付けられない、市民権を得たのである。そのことは、実際 に「レベル7」の事故が起きたという事実が最も重要であるが、それに加えて、今回の事故には「想定外の」天災に起因するから仕方ないという説明では済まさ れそうにない諸々の要因が付随しているためでもある。それまでの政府の基準や法律の想定に誤りがあったこと、事故を起こした電力会社が隠蔽体質で無責任な 態度を示そうとしたこと、原発推進を大前提とした経産省原子力安全保安院のチェック機能に限界があること、政府・電力会社・原子力安全保安院のみならず大 学・マスコミに至るまで癒着の構造が見え隠れしていること、政府と東京電力の事故後の対応がすべて適切というわけにはいかず、判断ミスや隠蔽や情報操作が 伴うこと、などの事実は、むしろこれまで通り原発推進を無批判に継続することの方を「非常識」な態度に変えたとさえ考えられる。その裏返しとして、今後の エネルギー問題を反原発の一言で片付けられないのも事実であるが、しかし、だからといって、今回の問題が、不運な事故被害者に補償をすれば済むというほど 単純でないのは明らかである。われわれはまず原発の安全神話がどのようにしてつくられてきたのかを自覚し、原発の必要性についての議論をいわゆる御用学者 や利害関係者ばかりに任せず、国民レベルで議論を尽くす必要がある。そして、今後の原子力政策を問う国民投票か、あるいは少なくとも事実上その点を争う国 政選挙が行われることを望みたい。(2011/4/12)

(1)内閣府政府広報室「『原子力に関する特別世論調査』の概要」(平成21年11月26日)<http://www8.cao.go.jp/survey/tokubetu/h21/h21-genshi.pdf>
(2)村主進「原子力発電はどれくらい安全か」(『原子力システムニュース』Vol.15,No.4、2005.3)<http://www.enup2.jp/newpage38.html>

 



(備忘録)恩師のお墓参りを終えて

  1月に恩師が逝去された。昨年秋、お見舞いに伺った際、通夜・葬式は親族で行うので弟子筋は呼ばれないと本人から直接聞かされていたので、納骨後にお墓参 りをするつもりでいたが、ようやく今日その願いが叶った。「西岡君。別に来なくてもよいのに(君にはもっと他にやることがいろいろとあるだろう)」と言い ながら、少しうれしそうな顔をのぞかせる先生の顔が脳裏をよぎった。それは、先生の退職後、お宅を訪問するごとに、私に見せてくれた表情だ。四半世紀もの間、本当に良好な師弟関係を維持することができ、感謝の言葉しか出てこない。

 思い返すと、大学院に進学したとき、初対面 の先輩にいきなり言われたのは、「われわれがどんなに憧れても、どんなにがんばっても、先生のようにはなれないよ」ということであった。その先輩も私 も、今では無事大学教授に収まってはいるが、たしかにどんなにがんばったところで、先生の足下にも及ばない。研究の内容については、具体的に何かを教わっ たわけではないし、いま振り返ると不思議な気もするが、課題やノルマも年に一度の経過報告を課されたくらいで、他には何一つなかったと思う。本を紹介して もらったのは、学者の晩年の心境を知っておくためか、ゲーテの『ファウスト』を読めというくらいだった。叱咤激励というようなものもほとんど記憶がない。 結局、先生に教わったことといえば、学問とは何か、歴史とは何か、方法とは何か、大学人はどうあるべきか、ということや、やるべきで「ない」ことの一連の 注意事項であった。博士課程3年の授業時、「もう西岡君に教えることは何もないよ」といわれて、何のことかわからずきょとんとした覚えがあるが、大学人・ 研究者としての心構えや姿勢については一から十まで教えたつもりだ、ということだったのかもしれない。本当に大事に育てていただいたのだと、いまさらのよう にありがたく思う。

 かくいう私は不肖の弟子で、せっかくの教えをなかなか生かすことができない。ただ、私は、大学院でお世話になった他 のある先生に、私のような大学しか知らない大学人のやるべき仕事の一つは、実務経験者が多くなった大学にあって、古くからの大学の文化を伝承することだと いわれたことがある。たとえ私自身が十分に生かし切れていないことであっても、いずれ折を見て、先生とのおつきあいの中で教えていただいたさまざまなこと を若い人たちに伝えられる機会があればと、今日、先生の墓前でふとそんなことを考えた。(2011/4/8)

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